■ブログへの投稿ではないのですが、高橋晴雄さんの体験がメールが着てましたので、紹介させて頂きます。
爆撃下
7歳時の私の記憶は朦朧としていて断片的なのですが、そのいくつかの場面(シーン)はいまにして強烈によみがえってきます。
1945年7月9日も空襲警戒警報があり、それがやっと解除され家族はほっとしたようです。そんな矢先、真夜中の0時を機に124機による突然の爆弾、焼夷弾投下が始まり2時間続き1060人(1300人という説もある)の犠牲者と市街地の大半を焼け野原にしました。
私の記憶は,焼夷弾集束弾なのか、それとも高性能爆弾投下なのか、とてつもない地響を伴った大音響が起こり玄関口で柱にしがみつき離れなくなったときから始まります。玄関先3mくらいのところに掘られた防空壕に引きずるように抱きかかえられやっとたどりつきました。しかし外にいた父はこのままでは危ないと思ったのか、母とわたしと2人の兄姉を外に出し、にげるように促しました。
外に出ると、空は焼夷弾と照明弾で真っ赤に染まり、真昼のように異様に明るく、サーチライトが米機を追っていました。私の家は集中砲撃にあった仙台駅周辺から程近い東六番丁小学校のそばにありました。100m先に火の手が上がったので反対方向に逃げることになりました 。(略)
(避難時のシーン)
水槽で水をかぶせられ、B29の波状攻撃を避けるように通り沿いの軒先に身を潜め、収まると又歩き始めるのです。見ると各家から飛び出して来た人たちで一杯で、混雑の中ではぐれないようにしっかり母と手をつなぎあっていました。やっと東照宮の境内林の草むらに身を隠しました。(中略)醤油瓶1本だけもって、あるいはなべのの蓋だけもって、ある者は靴片方だけ持ちはだしで逃げてきていました。しばらくして、爆撃が収まり、家に戻ろうとすると 不発弾があるとか、燃えているところがあるという情報でかなり迂回してやっと家に戻ったようです。(略)
当日10日 昼には疎開地へ 見渡す限りの焼け野原 焼死体を見ながら
朝、田舎から心配した叔父が、木炭で走るトラックで県庁付近まで救援に駆けつけ、焼けくすぶる街なかを通って我が家にやってきました。直ちに疎開だ。ここに居ては危ない、まず小学生2人、〔私と兄〕を連れて父母とわかれて家を出るのですが、トラックにたどり着くまでの道筋は、今にして思えば地獄絵でした。
花京院をへて市電通りに出たとき、姉が通う女学校も含め見渡す限りの焼け野原でした。市役所までの両側は焼けくすぶっていてところによって熱風で息苦しく歩くのが困難でした。戦後できたレジャーセンターのそば?を通ったとき焼死体が焼け跡に無造作に並べてありました。確か県庁側には筵をかぶった焼死体もありました。長兄がちょっと前まで入院していた県庁脇の第1陸軍病院(衛戍病院)は既に丸焼け、東2番丁の市立病院、そして1番丁の三越デパートと目指す市役所庁舎以外みんな燃えつくし、まわりはくすぶっておりました。市役所方面から県庁裏手を通りますがここも焼けていました。昨夜からの恐怖の連続にあったのか7歳児は何故か長ずるまでそのシーンはうろ覚えのようになっていました。これを書いているうちに浮かんできました。
(次のシーン)はこうです。トラックの周りには、乗ろうとする人たちでいっぱいでした。既に荷台は人や積荷で山のようになっていました。やっと積荷の上によじ登って乗ることができました。北仙台から七北田街道を通り、王城寺が原から古川に向かって砂利道を走るのですがぐっすり眠ってしまった私は途中走るトラックの荷台から何度も道に振り落ちそうになり、上と後ろから、横から首筋や手を握る大人たちに救われたそうです、が途中の記憶は一切ありません。走り始めたとき、乗ろうとする人たちを置いてきぼりにしてクラクションを鳴らして走ったことだけは記憶に残ります。途中歩く逃難するひとが延々と続きますがトラックはそんな人々を蹴散らすようにして走ったといいます。
8月15日
天皇の玉音〔敗戦〕放送は縁故疎開先のおじの家で聞きました。みんなは正座していました。私は遠巻きに聞いていました。母のおじが「負けたのだ、負けたのだ」と声を上げました。2人の息子を兵隊にとられたおばは黙っていました。私は何がなんだか全く理解はできませんでした。ただ親が迎えに来るぞという思いにいたったのかは明確ではないのですが何故か明るい気持ちでした。8月20日過ぎにやっと母がやってきました。それまで仙台に帰るのは危ない。米軍がやってきて皆殺しになるからと、親戚一同が私たち兄弟を帰すまいとしていたようです。母は死ぬときは家族一緒だといいはり、反対を押し切って連れ戻すことになったと後で聞きました。別れるとき親戚たちが泣いていたのも進駐軍に皆殺しになると本気で思っていたからでしょうか。軽便〔ミニ機関車列車〕で4時間近く揺られて帰仙したのですが家では兄姉全員が待って、手をつないで輪になって座敷の中をくるくる走り廻ったこと、今も平和のありがたさを噛み締める私の映像になっています。
敗戦直後の自宅付近
程なく米軍が進駐してきました。先頭に機関銃をすえたジープが走り十数台のジープ、トラックが家の前を過ぎていきました。走りながら空砲も撃ったと後で聞きました。占領開始の威嚇を狙ったのだと思います。
近くの仙台駅の半分はペンキが塗られたのか瀟洒な米兵専用駅になり、金網越しに覗き見ることができました。列車は冷暖房つき。日本の列車は窓から体を出すほどの込み具合。その差は歴然、敗戦国の姿でした。米占領軍兵舎が置かれた榴ヶ岡(旧陸軍四連隊。ここには2等兵の兄がいて母と慰問に行ったことがある。殴られて顔が無残に膨れていた。ここからガタルカナルやアリューウシャンや北支さらにビルマなどに派遣され転戦し多くが死んだ)向かう道路はMP憲兵が厳重な警護、交通整理に当たっていました。駅は戦災孤児や、家を焼け出された人たちの住処になっていました。線路下のガードも家を焼け出された人たちの住処になり、その状態がしばらく続いていました。米兵相手の子供の靴磨きがはじまりました。
米軍は私の自宅前の東六番町通りに沿って常盤木丁にある遊郭地に向かって大型トラックをゆっくり走らせ、トラックを買春用にしていました。トラックから当時パンパンといわれた売春婦が降り立つのを何度も見ました。自宅そばの教会の庭はパンパンといわれた売春婦と米兵のあられもない場になりました。私の遊び場だった教会の庭に行くと風船が投げられ追い払われました。風船はコンドームとは知らない子供たちの宝物になりました。
当然私は家の外に出ることが厳禁となりました。米兵たちがジープから子供たちにチュウインガムを撒き始めました。私は門の隙間から道路をそっとのぞいただけだったのに、血相を変えた父から罰として蔵に閉じ込められてしまいました。真っ暗な蔵の中で泣きじゃくった覚えがあります。門を開けて米兵が一人で入ってきたこともありました。女性を探しにきたのです。裏通りの各地に売春宿ができはじめ日本人の円タク斡旋屋が間違ってつれてきたということです。親は不在で小学生2人が棍棒と擂り粉木を持ってきて姉を守ろうとしました。大人が誰もいないと気づくと出て行きました。姉はとっさに隠れたようです。
待っていたのは空腹でした。
学校ではクラスで弁当持参は70人中2~3人だけ、一つの弁当にみんなが群がったようです。私は低学年だったので家に帰ってから食べました。母が着物など売って芋などに変えていたようです。よくかい出しにいっていました。学校では米軍放出の腐ったにおいのするミルクがアルミの蓋の上に注がれました。私は吐き気を我慢して飲む場合と捨てるときがありました。先生の指示で小学5,6年生は食べられる雑草を摘んで登校しました。雑草いりどんぐり粉パンが配給されました。私はとても食べられず捨てたのでひどくしかられたことがあります。
学校では日系二世の米兵が教室を廻り戦争に関する掲示物をはがしていきました。教科書には墨が塗られました。黒ずんだわら半紙に印刷された文章が渡されはさみで切って冊子にして使いました。校舎は焼け出された女学校も使うようになり2部授業になりました。(学制が変わってからは3部授業になりました)。この女学校には姉も通っていて同級生には迫りくる火に追われて逃げ場を失って広瀬川に飛び込みなくなった友人、包帯だらけになってくるもの、先生も火傷をおっていたといいます。
敗戦の混乱は人々の心を蝕んでいきました。私の通学のズック靴も傘も学校の帰りにはしばしばなくなり、やむなく私ははだしで学校に通うこともありました。大人が学校に入ってきて盗むということでした。私の名前がハルオのせいか、ハローハローチュインガムといって米兵を追いかけていた子供たちに、私はチュウインガムとはやし立てられました。私にとって屈辱のあだ名でしたが当時の世相を反映していました。
62年ぶりに 元寺小路 岩本外科病院跡地に立って
駅に程近い元寺小路に戦前岩本外科病院がありました。私は赤ちゃんのときに手がくるぶしのようになるおおやけどをしていました。国民学校入学の前にくるぶしを切開して指を出す手術をしていました。長じてから、病院と周辺が7月10日集中的な焼夷弾を浴びたと聞いた事があります。ベッドの上の患者と付き添いのベッドの下の親を不発弾が貫通するなど 周りは阿鼻きゅうかんだったと伝え聞きました。70歳になった昨年私はその前に妻と立ちました。もう岩本病院はありませんでした。又確か近くにカソリック教会があり、外国人たちが隔離収容され、中庭をぐるぐる引き廻されていた記憶がかすかに浮かんできました。私を執刀してくれた医者や看護士はどうだったのか。私が手術した病室は?思いはぐるぐる廻りました。教会にいた人は?きっと逃げ切ったに違いない。でももしかして空襲の当日の昼この病院に程近い斉藤報恩館の近くを通ったときに見た焼死体の中におられたのではないか。熱いものがこみ上げてきました。
追記
戦争はすべて狂気です。すべてを異常にします。その戦争の原因は・責任は
戦争が終わったある暑い日私は父に連れられて家から広瀬川を越えた川内まで歩いたことを思い出します。行けども、行けども焼け野原、瓦礫。よくもこんなに燃えたものだ。日本の家屋は木と紙と壁でできていることに目をつけて大量の焼夷弾を落としゼラチン状油脂が体や家屋に付着し火災を起こし多くの市民を殺戮しました。広範囲の周囲に火災を起こしその中にいるの多くの人々の逃げ道をふさぎました。市民生活を破壊し尽くすような空爆は東京空襲をはじめ日本各地の都市空爆がそうだった。仙台も、千葉市も。
そんな空爆は戦後日本政府から何故か高位の勲章を授与された米司令官ルメイ(ヨーロッパ戦線で武勲を立てて太平洋戦線に回されたきたといわれる)の立てた戦略だったのは今では明らかです。日本の真珠湾奇襲攻撃、重慶市民への無差別爆撃 南京虐殺など さらに東南アジア諸国への日本の侵略、非道な加害が先行したことに続く日本の都市への攻撃でした。軍都仙台から外国の民をあやめる出兵が繰り返されました。
一方、日本の敗戦が既に明確となったときに戦後世界の覇権のためにアメリカはヒロシマ、ナガサキに原爆を投下し21万人(これまで38万人)を殺傷しました。今なお23万人が放射能後遺症で苦しんでいます。その1ヶ月前に仙台空襲で1000名を超える命が散りました。敗北が明白にもかかわらず国体護持のため”もう一戦交えてから”という聖断で戦争を引き伸ばし3月10日の東京大空襲での10万人の犠牲者を始め全国各地の都市への爆撃を許してしまいました。この結果市民の爆撃犠牲者は55万人をこえ都合330万人の犠牲者を持って戦争は終わりました。日本軍の手によるアジアの2000万とも言われる犠牲者一人一人にそれぞれの生活と人生があり親がおり子供がおり友達がいました。その犠牲の上に世界に向けた平和憲法が生まれました。私の学び舎だった川内キャンバスも伊達の武家屋敷から 第2師団司令部、そして接収された米軍キャンプにかわり米軍基地から「初めて武器よさらば」した平和な大学キャンバスになりました。63年間戦争に直接手を染めなかった日本。尊い犠牲の上に私も平和のもとに生きることができました。
しかし戦争責任をあいまいにしてきた日本。戦争のむごさを忘却していく日本。軍事費が膨らむ日本。海外で武器を使うことを合法化しようとする日本。今を生きるものの「戦前」責任が問われそうです。もろくなった平和を崩さないように。崩れぬ平和のために。次の世代のためにともに手をたづさえたいと思っています。
(~22歳時まで在仙台 現在71歳 在千葉 高橋晴雄)
注 仙台空襲
マリアナ基地を9日15時3分 134機出撃 ばく撃機数124機 投下爆弾総数12,961発。高性能爆弾8個 焼夷弾912トン、10日24時3分から午前2時3分まで 25回の波状攻撃 無差別爆撃によって猛火に襲われ、羅災戸数23,956戸 羅災世帯11,411羅災人員51,832人 死者1060 重傷者385人。市内の中枢部116万坪 焼け落ち瓦礫に。敗戦の1月前であった。
■アトムのつぶやき■ 「より良き生活と平和のためにと言ったスローガンがあった気がするのです
が、最近はあまり耳にする事がなくなった。でもハルさんの体験談やTVの
番組も見るようにしよう」